とらひこ先生


20 あぶち

喧噪に満ち溢れ人の心はむき出しで原色が調和した街。
野良犬がさまよい、赤いベベ着たねえさんや裸の大人達がほっつき歩く街。
そんな時代の夕まぐれの中にトンズラしたいものだ。



・・・・・・あぶちという男がいた。
ちゃんとした名前もあったようだが誰も知らなかったし、あぶちという意味も正確にわかる人
もいなかった。大正の初めにはすでに四十を越していたらしかったが、見かけは二十代の若者の
ように見え、今で言う知恵遅れというのであろう。人並み外れた長身に学生帽をかぶり、着物
の前をはだけて、時々奇声をあげながら街中をさまよった。
 東片町の路地裏に、母親と二人で.住んでいるということで、夏は臑の上までしかないつんつる
てんを着ていて、足がいっそう長く見えた。冬は羽織を重ねていたが、いずれも年代焼けして身丈も
不揃いであった。けれども、破れたり汚れたりしているのを見たことはなく、それが母親という人の
せめてもの心づかいであったのだろう。兵児帯を胸のあたりに巻きつけて、ふわりふわりと
宙に浮くような歩きぶりが、また独特のものであった。・・・・・・

                           『絵金伝』山本駿次郎著 (三樹書房刊)より引用




山本駿次郎は、
『絵金伝』の「島田介雄(高知の絵金)」の項で、島田介雄の生きた時代の後景として、
あぶちを描き出している。山本駿次郎が、あぶちにそそぐ眼差しはあたたかくやさしい。
あるいはあぶちは、四編に分かれたこの本の大きなテーマの象徴と言えるかもしれない。


「あなたは高知の出身なのに、どうして坂本竜馬を書かないのですか?作り話でもよいから竜馬
をお書きなさい。それなら売れます」と出版社から言われ、
「わたしは銅像になっているような人は書きたくないのです。わたしの書きたいのは、歴史にも残らず、
人名辞典にも載っていないような貧乏絵描きの話です」
この作家は、こう答えている。


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